仕事は母ちゃん

どーってことない脳内と日常の垂れ流しです

顔の見える助け合いが必要なのかも

今日の午前中、中学校の除草作業のため登校した三男。近視でメガネをかけてるのにメガネなしで登校したんですよ。おっかしいなあと思ったらメガネをかけたまま寝てしまって、起きたらメガネのつるが折れてたそうです。なにやってんだよお前!ああああ…余計な出費が…とがっくりきてるさっこさんですこんにちは。結局、同じフレームがお店にあったので今日はメガネを預けて明日取りに行くことになりました。明日は古いメガネで我慢してもらわないと。自分が悪いんだからな!

話変わって昨日読んだエントリーのことなんですが。読んで思ったことをつらつら書こうかと思います。

私は四男を出産する前、息子達に言い渡したんですよね。「お母さんが赤ちゃんを産んでしばらくの間、友達の家に遊びに行かないで。その代わり、友達はいくらでも家に呼んでいいから」と。田舎なので友達の家まで距離があるため、低学年のうちは祖父母や親が友達の家まで送迎するのが一般的。しかし出産してしばらくはできるだけ体を休めたい。でも息子達が友達と遊べなくなるのは可哀想。となると結論は友達に遊びに来てもらう、これしかない!だったわけです。そうしたら退院した翌日に長男の友達が3人ほど遊びにきました。その横で私は四男と一緒にグースカ寝てましたよ。

しかしどうやら多くの親御さん達にとって、そんなことは無理な相談らしい。まあ他所の子が遊びにきてる状態で寛ぐなんて難しいという気持ちはわからなくもないんですが、子供の友達を家にあげること自体を嫌がる親御さんが昔より増えたような気がします。こんな感じで親自体が子供に対して非寛容になってるんですよ。それは何故なのか。

昔と違って核家族が増えたりご近所の繋がりが希薄になった結果、パーソナルスペースが昔より広くなったんじゃないかと思うんですよ。いきなりやってきて長々話をしていくおばあさんとか、「醤油を切らしたから借りていい?」とやってくるおばちゃんとか、「おばあちゃんが倒れたから一緒に病院まで付き添って」と頼みにくるおじいさんとか。そういう話を聞くことがめっきり減りました。つまり「親しい」と認識する範囲が異常に狭くなった結果、パーソナルスペースが広くなりすぎたんじゃないかなと。

田舎だとまだ地域全体の人と何らかの繋がりがあります。こちらの地域だと出産すると出産祝いをご近所の方が病院まで持ってきてくれるんですよね。それがわかってるので入院前に缶ジュースや缶コーヒーなどの缶入り飲料をケース単位で用意します。お祝いを持ってきてくださった方にお渡しするためです。私はわりと平気だったんですが「産後で化粧っ気なし、ぼさぼさ頭の状態でお祝い持ってこられるなんて無理」とおっしゃる方が意外と多いです。

でもそれぐらいあけすけだとご近所さんが気安く言いたいことを言えるんですよね。上の子達は年がくっついていたので小学生ぐらいまでは激しい喧嘩をすることが多々あったんですが、その翌日にご近所さんと顔を合わせると「昨日は派手に喧嘩してたね~」と言われました。登下校中に危ないことをしている息子達を叱ってくれた人もいました。逆に「毎日挨拶してくれるから感心してるんですよ」と褒めてくれる人もいました。他所の子との関わりが家族に近い感じになるわけです。

そう考えると、社会に寛容さを求める前に親自身が社会に対して寛容になり、助けようとする意思が必要なのかも。「助け合う社会」にするためにはお互い様が大前提ですからね。今から見るとデリカシーのない昔ながらの付き合いを復活させるのは無理があると思いますが、お互いに顔が見える助け合いをどうすればできるかを模索しなければならないのかもしれません。