仕事は母ちゃん

どーってことない脳内と日常の垂れ流しです

大人になって読む「手袋を買いに」

本日、長男が免許取得後、初めて運転しました。義姉の店まで手伝いに行くことになってたんですが「助手席で道教えるから自分で運転してみな」ということで。だって勤務先は義姉の店より遠いのに、運転できなくてどうするよ!ということで。しかし初運転の助手席は怖い!怖いよぉ…。運転しながら「そこの自転車飛び出すなよ!」「うおー!ガキが走り回ってる!」などと叫ぶし。不安バリバリで生きた心地がしなかったさっこさんですこんにちは。今度は会社まで運転させて道覚えさせないとなあ…。それまでにちょいちょい運転させないと。寿命が縮むぜ。

さて、そんな騒動の間、友達と一緒に遊んでた四男ですが、その四男が最近持ち帰ってくる国語の宿題が新美南吉の「手袋を買いに」の音読だったりします。いやー懐かしいですね。5年ぶり4回目だよ「手袋を買いに」の音読を聞くのは。私も小学生の頃、教科書で読んだ記憶があるよ。

小学生の頃初めて読んだときは「子狐の冒険譚」だと思ってました。どうしても子狐に感情移入しちゃいますからね。子狐が無事手袋を買って帰るまでどきどきしたものです。しかし大人になって読んでみると感想が異なってきます。

人間を「ほんとに恐こわい」と子狐に教える母さん狐の回想ですが。

その町の灯を見た時、母さん狐は、ある時町へお友達と出かけて行って、とんだめにあったことを思出しました。およしなさいっていうのもきかないで、お友達の狐が、或家の家鴨を盗もうとしたので、お百姓に見つかって、さんざ追いまくられて、命からがら逃げたことでした。

新美南吉 手袋を買いに

これを読む限り、人間の飼ってる家鴨を盗もうとした狐が悪いのですが、母さん狐の回想を読む限りではどうも盗もうとしたことそのものは悪いと思ってないみたいなんですね。狐だから追われたわけじゃなく家鴨を盗もうとしたから追われたわけですが、そこには思い至ってる様子がない。人間のルールと狐のルールは異なるんだというのがよくわかってないのかな。ところが子狐に白銅貨を握らせてるところからして、手袋を手にするにはお金が必要だというのはわかってるようです。人間のルールを覚えようとはしてるようですが、人間が教えてくれるわけじゃないから完全に把握してるわけじゃないというところですか。だからむやみやたらと人間を怖がるわけですね。

で、人間が怖い母さん狐は子狐だけで手袋を買いに行かせるわけですが、何故子狐だけで恐ろしい人間のところへ行かせたのか?という疑問が残ります。手袋がなくったって子狐が死ぬわけじゃないですから、寒くても我慢させたらすむことですしね。これは折角買いに来たのにこのまま帰るよりは子狐だけ行かせて手袋を手に入れたい、という気持ちのほうが勝ったんですかね。子狐に手袋を買ってあげると言った(文中では言及されてませんが)手前、そのまま帰るわけにいかないと思ったのかもしれません。親として子供との約束は守らねばならない、というところなのかな。自分のプライドのほうが子狐の命より上なのはちょっとどうかと思いますが。

次に帽子屋さんの言動ですが、お金が本物なら相手が人間でなくても客は客、というのはかなり肝が据わってると思います。相手が子狐となめてたのかもしれませんが、ひょっとしたら子狐に化けたもっと恐ろしいものかもしれないわけですからね。帽子屋さん、客を選ばないし動じないとは商売人の鏡じゃないですか。肝っ玉が小さい人だったら腰を抜かすか追っ払うかどちらかだったでしょうね。ひょっとしたら狐以外にも商品を売ってるのかしら。そう想像すると面白い。

まあ一番の疑問は狐親子が人間の言葉を理解して話せるところですけど。一体どうやって覚えたんだろう。人間も狐の言葉が理解できれば、人間と狐がうまく共存できるかもしれないなあ。人間同士でもそうですが、言葉が通じてようやく相手の思ってることが理解できますからね。相手がこちらの言葉を理解してくれないと、誤解を解くことすらできないわけで。その誤解からくる悲劇はごん狐に繋がるわけですが。そう言えば、このふたつの作品を混同してる人をたまに見かけますね。どっちも狐が登場するのもあるんでしょうけど。

などと考察してみると、異なったふたつの社会が対立すること交わるためには先入観のない子狐のような存在がどちらの社会にも必要なのかな、というところにいきつきます。小学校ではどのようにこの作品を教えてるのかわからないんですが、大人になってから子供向けの作品を読むと当時見えなかったものが見えてくるので面白いですね。だから小説って何度でも何度でも読み返したくなるのですよ。