仕事は母ちゃん

どーってことない脳内と日常の垂れ流しです

あの日から20年経ちました

今日は晴れたかと思うと雨がぱらついたりと不安定な天気。そんな中、長男は教習所へ出かけ、三男は友達と一緒にゲームソフト物色しに行きました。次男は今日も寮で過ごすし夫は仕事なので家にいるのは私と四男だけ。土曜日というと息子達全員引き連れて出かけ、周囲からじろじろ眺められたのが遠い昔に思えるさっこさんですこんにちは。大きくなるとそれぞれ用事も予定もばらばらになるので、なかなか一緒に行動というのも難しいものですね。

さて、遠い昔と言えば今日で阪神淡路大震災から丸20年経ちました。もう20年も経ったのか…というのが正直なところです。当時の私がどうしてたかといいますと。1993年に父方の祖父が亡くなり、祖母は一人暮らしになりました。しかし祖母も高齢、祖母の子供達(父と叔父)は県外で暮らしているのでちょくちょく様子を見に行くわけにもいかない。ということで親族が話し合った結果、私が祖母と同居するということになりました。そこで10年間勤めた会社を退職して祖母の住む香川へ引っ越したのが1994年。幸い、失業保険の給付が切れる前に再就職も決まり、家事と仕事、土曜日には祖母を病院まで送ったりしながらすごしておりました。そして震災当時の私は29歳。10ヶ月後には結婚したのですが、まだ夫に出会ってすらいなくて自分がもうすぐ結婚するなんて知るよしもありませんでした。

前置きが長くなりました。あの日、私はいつも通り5時半に起きて洗濯機のスイッチを入れ、朝食の支度をしてるところでした。すると突然大きな揺れ。急いでコンロの火を消して食卓の下に潜り込みました。確か震度3だったと思うんですが、揺れよりも揺れがかなり長く続いたのが怖かったですね。揺れがおさまってすぐテレビをつけたら、NHK神戸放送局の様子が流れてました。それを見て相当大きな地震だったのはわかりましたが、そのときはまだ地震の規模も何もわからないままでした。

しかし出社してしばらく経つと「これはえらいことになった」というのがわかりました。事務所のテレビに映る映像は信じられないものだった。社長の息子さんが神戸の大学に通ってたんですが、奥さんはとりあえずそちらへ向かうと出発し、事務所の面々は皆テレビに釘付けで仕事どころじゃなかったのを覚えてます。大阪に住む両親からは翌日無事だという連絡が入ったかな。当時ラジオを聴きながら寝るのが習慣だったんですが、ラジオからはひっきりなしに安否情報が流れていて落ち着かない日々が続いたものです。

そしてその後の話。実父は大工なんですが、震災から1ヶ月もすると神戸へ仕事に通うようになりました。しかしまだ道路は寸断されてますから、大阪から神戸へ移動するだけで半日がかり。1時間ほど仕事したらまた大阪へ戻る…という生活だったようです。神戸に泊まり込みたくても泊まれないですしね。全国から建築業者が集まったので、聞き慣れない方言も耳にしたって言ってましたっけ。

大阪では店頭から缶詰などの非常食になるものが消えたという話も聞きました。親族や知人が被災した人達が買い占めて現地へ届けようとしたんですね。といっても前述の通り道路も寸断されてるし公共交通機関もほとんど使えないですから、大変だったようです。

その震災の記憶が生々しいときに地下鉄サリン事件が発生したので、関東の人は阪神淡路大震災より地下鉄サリン事件のほうが記憶に残ってるかもしれません。でも私はやはりあの震災の記憶のほうが鮮明ですね。20年経って結婚、出産、祖母の死と色々ありましたが、当時住んでいたわけでもないのにあの日の記憶は生々しい。私が最後に神戸を訪れたのは香川に引っ越す前だったので、私は震災後の神戸を実際には知りません。知らないけれど、やはり私にとってこの日は特別なものなのです。