仕事は母ちゃん

どーってことない脳内と日常の垂れ流しです

恋という究極の自己愛

学校はカレンダー通りのお休みなので、明日休みで明後日からまた学校という…。こんなんだったらいっそ明日は登校日にして金曜を休みにしてくれたほうが助かるのにと思ってしまうさっこさんですこんにちは。しかも今日は三男が日曜参観の振替でおやすみ。なんだこの中途半端さ。

などとぼやいてる今日この頃でございますが、本日の話題はそんなぼやきからほど遠い恋という謎についてのお話です。

実はTwitterでこういうリプライをいただきまして。

そこで思い出したのがこのエントリーでした。

誰かに「好き」って言われることが、ずっと苦手だった。 - いつか電池がきれるまで

恋というものがリプライにあるとおりのものだと仮定すると、それは相手の全てを自分に取り込んで同化させたいという欲望、取り込んだ相手を愛することであるならば、究極の自己愛ではないか…と思うのです。

「そうですよね……こんなことを考えちゃいけない、とは思うんですけど、自分にとって意識していなかった相手に『好き』って言われるのって、ちょっと怖いんです。どうしていいのか、わからないところがあって。こっちも好きならいいんだけど、そうじゃない場合、「お断り」しなきゃいけない。でも、そうやって、自分に好意を持ってくれている人を拒絶するっていうのは、けっこう疲れるというか、自分が嫌になってしまうところがあって。そういうのが続くと、そして、相手が「本気」であればあるほど、くたびれちゃうんですよ。好きになってもらえるって、ありがたいことじゃないですか。でも、だからこそ、邪険に扱えないところもあって……なんだか最近、そういうのが、とにかくめんどくさくなってしまって……」

誰かに「好き」って言われることが、ずっと苦手だった。 - いつか電池がきれるまで

先ほどのエントリーのこの部分、これは相手が自分を見てくれてるのではなく、相手が取り込んだ(と思ってる)自分を見ているだけ…というところが「怖い」に集約されてるんじゃないかなと思うのです。自分を見ているようで自分という偶像しか見ていない相手。まるでホラーです。自分も相手に恋してたら気にならないでしょうけど、そうでないなら恐怖以外の何者でもない。ある程度理性で本性を隠せたら気にならないでしょうけど…。「本気」だとそれは難しいのかな。

この仮定だと自己愛が強くなければ恋をすることは難しいことになり、それならば私が恋愛感情をなかなか理解できないのも納得です。自分に対しても投げやりと取られる言動をしがちなので…。よくそれで夫に叱られてますが、直す努力はしてるもののなかなか難しいです。

どちらにしても恋というのは相当なパワーがないとできないものじゃないでしょうか。そのパワーを持ってる人が羨ましくもあります。特に不倫や浮気をする人。どれだけパワーがあるんだろう。そのパワーが少しでも私にあれば…。もう少し生きやすかったかもしれません。もうこの年になってしまってはパワーなんてなくなる一方なので、このまま恋とは無縁のまま人生を終えそうなのが残念です。